伎倆と技術と技巧
一
伎と技とは同じ意味を有つが、兎も角「伎倆」と「技術」と「技巧」とは
相似た言葉であって、しばしば混用される。それがため各々の概念が明らか
でなくなる場合が多い。又それ等のものは実際密接な関係があって、互いに
働き合うものであるから、混雑が来るのも無理はない。併し仕事を進める上
にこれ等のものの性質に就いて、はっきりした概念を有っておくことは必要
であろう。これで自分の仕事の内容を省みることも出来、又与えられた品物
を見る場合にも役立ってこよう。言葉は用いる人に依って多少内容を異にし
てくるが、混雑を避けるためには一定の客観的意味を有たせておきたい。
私は例証を引くことで容易にこの混雑から読者を引き離すことが出来ると
思う。ここに抹茶の茶碗があったとする。光悦作と称える「鷹ヶ峰」の銘を
有ったものを引き合いに出そう。恐らく多くの人が知っているものであろう
し、又しばしば帝室博物館の飾棚に見出すことが出来る。この茶碗は始め轆
轤で荒引きしたかどうか、兎も角至るところ手造りを加えてある。胴体に縦
に大きな篦目を入れ、高台は平たくした輪を押しつけてある。釉薬の色は中
中渋い。この茶碗も伎倆と技術と技巧とが合わさって出来ているよい例であ
ろう。
ワザ ハタラキ
ここで伎倆とは何なのか。技は技で腕前と云ってもよく。又手ぎわとか能
とか云ってもよい。技能、力量の謂である。もともと芸能 'art' という言
葉はこの伎倆 'skill' をさすのである。例えば茶碗を作るためには、轆轤
が廻せなければならぬ。又削りが出来ねばならぬ。これは誰でもすぐ出来る
わけではなく、又誰でも同じに廻せるものではない。ここで技が要るのであ
る。釉掛のようなものでも簡単に見えて簡単ではない。土揉みでもそうであ
る。技は修練を積まないと上手にならない。つまり思うような形に作るとか、
うまく引くとかいうことはいつに掛かって技に依る。だからどんな工人も腕
を磨かねばならない。これには相当の歳月がかかる。この腕前は持って生ま
れた才能にも依ること多く、器用な者、不器用な者、様々に分かれよう。併
し有難いことに修練を積めば必ず或る高さまで達することが出来る。
もっともこの処に注意しなければならないのは技が充分上手になると、し
ばしばこの技を乱用して綱渡りのような芸を見せるようになる。そうして技
の冴えを見せたがる誘惑が起る。併しこのことは何も美そのものを生むわけ
ではないし、却って本筋からそれたものに陥り易い。技は自由さを得ればよ
いので、自由は楽なものであってこそよく、その自由に却って囚えられては
新たな不自由が起る。それに醜いものに素敵に上手な技を示すというような
矛盾したことも起り得るであろう。これ等のことは注意されねばならぬ。
茶人などで自から茶碗が作りたく、よく手造りで造り、楽焼でこしらえる
者がある。併し素人である悲しさで、腕がこれに伴わない。修練がないから
である。手造りを試みるのは、多く轆轤が引けないという消極的な理由に依
ることが多い。手造りは誤魔化しがきき易いのである。とかく「楽」の茶碗
はいびつに作るが、それは雅致という言葉で誤魔化しているのだとも云える。
何か意表に出て、腕不足を補わねばならないのである。「楽」の手本であっ
た「井戸茶碗」の如きは、一つとしてそんな誤魔化しはない。何れも堂々た
る腕前である。或は又坦々たる手並と呼んだ方が一層至当かも知れぬ。「鷹
ヶ峰」は「楽」として上々のものと云われる。そういってよいかも知れぬ。
併し「楽」に止まり、手造りに托したことに、どこか弱味を見ないであろう
か。大体楽焼は本焼に比べて難しい伎倆を要しない。それは陶業の本道たる
ことは出来ないのである。謂わば素人芸に近いのである。
二
次に技術というのは、何を意味するのか。再び茶碗に帰ろう。それにはど
んな土が適するのか。又その土をどう処理したらそれが活きてくるか。それ
は一色の土でよいか。何か混ぜると一層力が加わるか。又その土にはどんな
性質の釉薬を掛けたら適するのか。又その土や釉はどの位の火度を要求する
のか。又は窯のどの辺に入れたらどういう結果を得られるか、それ等のこと
をよく心得ねばならない。かかる心得は伎倆でなく技術である。それ故技術
は科学的な知識によって大いに助けを受けるであろう。尤もかかることは単
に概念的な知識だけでは駄目であって、どうしても経験が要る。謂わば経験
的知識が技術を完成さすのである。工人達にこの勉強は実に大切である。い
くら腕が冴えていても技術的な幼稚さがあっては、ずっとよく成る筈のもの
でも中途に止まって了う。
それ故技術には伝統は大きな助けになる。伝統は長い間に大勢の人達が踏
んで来た経験の堆積なのである。こういう伝統がなかったら吾々の技術は随
分遅れたものとなるであろう。この世に秘伝と称するものは、殆ど皆技術的
方面のことである。材料の選択や処理、作る方法や段取り、つまり手法や工
程に関する知慧や体得が肝腎である。それ故技術的ということは専門的とい
う意味がある。工芸は素人では駄目である。余技などと呼ぶものはどの道中
途半ぱであって、本筋のものではない。技術は玄人になって始めてこなされ
るのである。技術を心得た人のみが玄人である。
尤も此処でも注意しなければならないのは、技術を心得ているからとて、
すぐ美しいものは生まれぬ。技術的には素晴らしいもので、醜いものは多々
あろう。例えば清朝の五彩の如きは技術的に見ると非常な発達である。今日
の科学的知識を以てしても、容易に探求出来ない数々のことがあろう。だが
美しさから見ると、技術の浪費と呼ばないわけにはゆかぬ。この悲劇に就い
て工人達は盲目であってはならない。
三
さて、技術とは別に技巧がある。これは何を指すのであるか。「鷹ヶ峰」
という銘を有つ光悦の茶碗はよい実例を与える。茶碗を轆轤で引けば胴体は
平均した丸味を有ってくる。所がそれでは景色が乏しいといって、光悦は手
造りにした上、縦に大きな篦目を一本入れた。わざわざ意識して入れた。縁
造りにも波を打たせた。これは技術ではなく技巧である。高台も元来轆轤で
引いた上、削りを加えると自然に輪の形を成すものである。所が削りで出し
た高台では味がない。土をひねって平に押しつけて、それを高台にさせた。
だから形はいびつである。これは技巧である。
技巧を凝らすなどいう言葉があるが、技巧は一種の画策である。風情を加
え、人の目を引くためのたくらみである。茶器にはかかる技巧を加えたもの
が実に多いが、これはもともと美意識から発足する。美しさを加えるために、
特色を鮮やかにするために、即ち人の心を惹きつけるために考えられる意識
的工夫である。
美しい品物を作りたいと想う以上、この工夫が何等かの意味で加わるのは
当然だが、併しこれは一番注意しなければいけないことである。技術の方は
客観的な物の性質に支配されるが、技巧の方は人間の主観的な考えに支配さ
れる。人間には過ちはつきもの故、余程注意せぬとこれが致命的な傷になる。
「巧」の字は「たくみ」と読んで「拙」に対し「上手」というよい意味も
無論あるが、「たくみ」は「たくらみ」で、策略とか術策などを意味してく
る。それ故「巧」の字は、しばしばよくない意味にも用いられた。「巧詐」、
「巧偽」、「巧猾」、「巧言」、「巧宦」などいう字が示す通り、誤魔化す
工夫や計略の意味がある。「技巧を弄する」という言葉があるが、実際技巧
を玩ぶものは、策略が露わであって却って人々から厭かれるであろう。「鷹
ヶ峰」の茶碗もその篦目が山であろうが、あれが無かったらもっと自然な尋
常な厭きない茶碗となったであろう。そこまで試みた美への意識は並々のも
のでないが、意識の性質に無知であるのは賢明とは云えぬ。あの高台も力強
い所はあるが、わざとらしさが目について、ぢきに厭きるであろう。高麗茶
碗のような当り前の高台の方が本当で、どうしてもこの方に勝味がある。技
巧には謹しみが必要である。
因に云う英語でも、技巧に近い言葉で、悪い意味を有っている言葉が色々
ある。Crafty, Craftious 何れも巧猾の意がある。Artful, Arteous な
ども悪い意がある。これに反し Craftless とか Artless とかいうと、誤
魔化しのない無心なものとよい意味が出る。
美には誤魔化しがあってはならない。光の方を向いた、表通りを歩く仕事
が一番である。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 104号 昭和16年6月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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